【日本のマナーの歴史】
政治的な体制を固めるために、決まり事として出来てきたのがマナーの始まり。
公家と武家でもそれぞれ違い、それを『一子相伝』としてきたので他に知られることはなかった
小笠原礼法は解説書が出来て、もっとも一般に広まった
また、茶道などの諸芸においてもそれぞれの独自の決まりがあり、受け継がれてきている
603 | 大和 | 『日本書紀』によると、推古天皇によって『冠位十二階』が制定された 朝廷で働く人々に階級や行動規範を制約した道徳的な訓戒であった |
794 | 平安 | 天皇を中心とする貴族政権 貴族たちは政権維持のために煩雑な作法を定めてこれらを体系化し、伝承する職業「有職ゆうそく」を置いた 有職ははじめ宮廷の儀礼官職、典礼に精通した人のことを指していたが次第に儀礼や典礼そのものを指すようになった この有職に通じていることが官位をあげ、出世をする為の必須条件になっていった |
1185 | 鎌倉 | 武士の台頭、貴族政権の崩壊 貴族のガードマンのような存在で振舞いは粗野であったので身分は一段低く見られていた 初代小笠原長清が源頼朝、二代小笠原長経が源実朝の糾法(弓馬術法)師範に命じられた |
1336 | 室町 | 小笠原流中興の祖と言われる貞宗が弓馬の二法の上に、さらに礼法を加え弓馬礼の三法を糾法として小笠原流の基盤とした その後、貞宗は足利尊氏に仕え、後醍醐天皇より「小笠原流は日本武士の定式たるべし」との御手判と「王」の字を家紋に賜る それを象徴化して三階菱を家紋にした政治的な力を持つために武士の地位向上を図った将軍足利義満の命を受け、小笠原長秀らが中心となって公の礼法書である『三議一統』を編集し武士の礼節を示した これは貴族の「有職」に対抗するものとして、質実剛健 な気風を尊ぶ武家の作法「武家故実」を記したもの |
1467 | 戦国 | 農民が領主に反抗して一揆をおこしたり、家臣が主君を滅ぼして大名になるなど「下剋上」の風潮が加速する 権力者たちは権力を固辞するために朝廷に権威を求め貴族社会の儀式、服装、典礼などを武家典範に加えるようになった その結果貴族の「有職」と「武家故実」を融合した「有職故実」が生まれた それが日本の礼儀作法の基盤となる |
1603 | 江戸 | 世の中が一転して平和になり、幕府は士農工商に代表される身分制度によって体制の維持を図った小笠原氏は各家の故実も重視されるようになり武家社会の規範をとなる地位を得ていた 小笠原流礼法は幕府の公式礼法でいわゆる「お止め流」とよばれ、将軍家以外にその真髄を明かすことが禁じられていた また、「一子相伝」として奥義を継嗣以外に伝えることが無く一般に教授することはなかった *お止め流…指南が他流試合で負けると面目を失うので他流仕合は一切禁止されていた 一方、町人は実力がつくに従って格式ある礼法を学びたいという要求が出てきた 小笠原長時の流れを汲む水嶋卜也は江戸で新旧の内容を取り混ぜて故実礼法を教授し、民間に広まった また、「小笠原流」と称して礼法を教える人々が現れていった 婚礼、葬儀といった通過儀礼から飲食、服装、振舞い、文章作成の方法、口上の述べ方などの日常生活全般にわたっても詳細なしきたりや作法が確立された |
1868 | 明治 | 大政奉還によって世の中が再び混乱期 開国に伴い西洋文明が一挙に入り込んできて社会構造 が一変する 文明開化でこれまでの風俗や習慣を否定して帯刀禁止、洋装の奨励、四民平等など、新しい社会の幕開け学校教育では「教育勅語」が明治天皇の勅語として発布された 天皇を頂点とする新しい身分制度の確立を目指した 「修身」が作法の基本、日本独自の礼儀作法が急速に 作られた この時期の学校向け礼儀作法書は江戸時代から続く小笠原流等の武家の礼法諸派によるものが多かった |
1912 | 大正 | 欧米のマナーも翻訳され和洋折衷の作法も広まるが 内容はいい加減なものだった *海外の方と良い関係を作るには、外務省の国際儀礼(プロトコールマナー)を参照 |
1926 |
昭和 | 文部省は礼法教育の国家基準を作ろうとした 「礼法教授要項調査会」を設置して、委員長に尾張徳川家十九代当主徳川義親に委嘱した |
1939 | 「礼法要項」を作ったが発表が遅れたため、徳川義親は解説書の必要を感じて『日常礼法の心得』を執筆して文部省の発表より先に出版してしまった | |
1941 | 文部省によって礼法教育の国家基準といえる「礼法要項」発表 | |
現在 | 現在、小笠原流は長清から続く三十一世宗家清忠の小笠原流弓馬術礼法、小笠原教場に引き継がれている 「小笠原流礼法」の登録商標を持つ 一方で、小笠原惣領家は小笠原敬承斎によって独自の活動を行っている |
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